書評 近内悠太

書評「世界は贈与でできている 近内悠太」【小説と贈与について知ることができる】

次の点についてお伝えします。

・この本の気になった点を3つご紹介

私自身、ビジネス書、技術系書籍などを年間少なくとも100冊くらいは毎年読んでおります。
そのため、本棚には2000冊以上あります。

多くの作品を紹介しながら、なぜそのようになったのかなどの考察を交えて、贈与とはどういう意味を持つのかについて書かれています。
最初、自分の経験も重なりなかなか読むのがしんどいところがありました。
ただ、それだけ気づきがある本だとも言えます。

この記事は2、3分で読めますので、もしよろしければ目を通していただければと思います。
目次を最後に載せております。

書評「世界は贈与でできている 近内悠太」【当たり前のことは当たり前ではない】

世界は贈与でできている

著者 近内悠太
出版 ニューズピックス
2020年7月30日 第3刷発行

ペイ・フォワードで主人公には死ぬ理由があった

なぜペイ・フォワードという仕組みを思いついたのかとシモネット先生に問われたときも、トレバーは答えます。
「何もかも最悪だから」
トレバーは、柔らかな毛布に包まれるような愛を知らずに育ちました。彼は、少なくとも本人の主観的には、贈与を受け取ったという実感を持つことができていません。
ここがこの物語の結末の謎を解くポイントです。
なぜトレバーは殺されなければならなかったのか。
それは、彼が贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまったからです。

出典 世界は贈与でできている P.38

主人公は中学生でトレバーといいます。
世界を変える方法をクラスで考えようといったときに、考えた方法が「ペイ・フォワード」というものです。

「ペイ・フォワード」とは、自分が受けた善意や思いやりを、受けた相手にではなく、別の3人に渡すというものです。
「ペイ・フォワード」という映画を見ていないのですが、こういうことはあり得るだろうなと思います。
そもそも、愛情いっぱいに育てられた人ならば、他人に愛情を配ることができることは容易に想像ができます。

逆に愛情を受けていないのに、周りに配ろうとしたら、相手に対して、返礼を求めてしまうのかもしれません。
役に立ちたいという気持ちに、見返りを求める気持ちがあるのは、偽善だとも書かれていますが、まさにその通りです。

見返りも求めず、自分が好きだから行う行為を親切といいます。
なんらかの見返りを求めて、相手のための行動は偽善です。

もし、トレバーが誰かからの何の合理的根拠もなく恩や愛を受け取り、それを痛いほど理解して、こう宣言することができたなら、きっと彼は死なずに済んだはずです。
「ペイ・フォワードは僕が始めたわけじゃない。ペイ・フォワードはずっと続いている」と。

出典 世界は贈与でできている P.41

これは、そもそもトレバー自身が気づくべきことだったように思います。
何に気づくかといえば、どんな生活であっても、どこかの誰かから、わずかでも愛も恩も今まで受けているから、中学生まで生活をできてきたということです。

世界が安定していると思うと「感謝」を失う

それは、昨日と同じような今日がやってくることを表しています。
実際、停電が起こってもすぐ復旧し、電車が運転を見合わせてもそのうち運転再開となります。コンビニの品薄状態も一時的なもので、ルート配送のトラックが来れば商品は滞りなく補充され、上下水道も当たり前のものとして機能していて、ボタン一つであたたかいお湯が出ます。体調を崩しても、薬を飲めば治るし、少々悪化した場合でも検査して入院すれば回復する。医療体制も完璧です。道路もきれいに舗装されているし、それに火事だって、救急だってめったに起こりませんし、犯罪の被害にもそうそう遭いません。
だから、僕らはついつい、このボール(=社会)がくぼみに置かれた安定つり合いだと思い込んでしまいます。安定つり合い、つまり復元力が働いているがゆえに、少々の社会的混乱も自然に収まると思い込んでいます。
しかし、ここには問題があります。
この世界が安定つり合い(くぼみに置かれたボール)だと思っている人は、少なくとも「感謝」という重要な感情を失うのです。

出典 世界は贈与でできている P.191

私たちが、当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではないということです。
そのため、電気が止まれば苛立たしいと感じますし、誰かが安定を壊したのだろう、ということになってしまいます。
なぜならば、何もしなければ、本来安定に戻るはずだからということになります。

でも、本当は放っておいて直るものはなく、電気でも、コンビニの品ぞろえにしても誰かが対応してくれているから補充されていきます。

実はこの話は次の話への伏線(ふくせん)となっています。
その続きはあるのですが、ここでは載せません。

「受け取ってくれてありがとう」
「困った時に私を頼ってくれてありがとう」
これらは、差出人の側が何かを与えられたと感じたからこそ発することのできる言葉ではないでしょうか。
宛先を持つという僥倖。宛先を持つことのできた偶然性。
贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。

「私は何も与えることができない」「贈与のバトンをつなぐことができない」というのは、本人がそう思っているだけではないでしょうか。

出典 世界は贈与でできている P.235

この考えが贈与だと思います。
ここに無理が入ると、どうしても相手が感謝してくれない、などとなりますが、そのような思いが出てきたときには、すでに善意ではなくなっています。

他のページに、贈与を受けたら返礼するものだ、というのはおかしいのではないか、とありますが、まさにその通りです。
もちろん、何かを受けたら返すという考えが悪いわけではないのですが、そこに義務や責任が発生するようなものではないです。

「好意を受け取ってくれてありがとう」
というお互いの「ありがとう」によって成り立つのが贈与です。

このような形で、いろいろな例をまぜながら贈与の在り方について述べられています。
日常的に行われる「贈与」とはどういうもので、どうあるものなのか。

それを、小説や映画などの例を混ぜながら説明されています。

このような切り口での本というのも珍しく、また、いくつかの小説の紹介にもなっているというところで面白い本です。
もしよろしければ、手にとってみていただければと思います。

目次

第1章 What Money Can't Buy――「お金で買えないもの」の正体
第2章 ギブ&テイクの限界点
第3章 贈与が「呪い」になるとき
第4章 サンタクロースの正体
第5章 僕らは言語ゲームを生きている
第6章 「常識を疑え」を疑え
第7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」
第8章 アンサング・ヒーローが支える日常
第9章 贈与のメッセンジャー

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