次の点についてお伝えします。
・この本を読んで気になった点や気づいた点を3つご紹介
私自身、ビジネス書、歴史書、哲学書、技術系書籍などを年間少なくとも100冊くらいは購入して読んでおります。
これまで、IT企業、メーカーのエンジニアを10年、起業して10数年、事業のバイアウトなどを行ってきました。
さて、本題に入ります。
太平洋戦争の火蓋、1941年12月8日の真珠湾攻撃から数十分遅れて「宣戦布告」が手渡されました。そのためアメリカでは「宣戦布告なしでの卑怯な攻撃」と言われています。アメリカにとっては、真珠湾攻撃からが第二次世界大戦で、日本においては、日中戦争からが第二次世界大戦かと思います。
日中戦争においても、「宣戦布告」は行われていませんが、真珠湾攻撃においては、作戦の指揮をとっていた山本五十六も攻撃開始時間については、非常にセンシティブに気にしていました。(宣戦布告前の攻撃にならないように)
しかし、実際は「不意打ち」となりました。
この本を読むことで、長年、私自身もなぜだろう、と思っていたことの一つのヒントが見えたように思います。
この記事は、2,3分で読めますので読んでいただき、何か一つでも参考になることがあれば幸いです。
ワシントンの外務省がサボっていたわけではない
実際に電文が送られたのは、現地時間では深夜からでした。
そのため、その時間に担当者がいなくて、朝来て大慌てで作成したが間に合わなかった、送別会だった、など「外務省の責任」のような文面を見たことがあります。
しかし、そういうことはなさそうです。
この本に書かれているのですが、12月5日頃から、まもなく重大な連絡があることは再三にわたって伝わっていました。
そして、本来ならば、十分時間に余裕があって届くはずの最後の電文がなかなかこなかったと書かれています。
全部で、14本の電文があったのですが、最初から13本目までは前日の夜までに来ていたようです。ところが、これまでの経緯のような内容でとても、緊急性の高い電文ではなかったそうです。
そして、夜中の3時になっても、14本目が届かず、ワシントン現地時間13時にハル国務長官に直接届けないとならないのに、翌日の11時になっても14本目が届いていなかったそうです。ようやく、届いて解読ができたのがお昼の12時頃。清書して持っていくのに13時には間に合わないために14時に予定を変更して持っていったとのことです。
その時には、すでに真珠湾攻撃が開始されて約1時間が経っていました。
宣戦布告が、そもそもなかったとは
しかし、この14本目の電文の中には、「宣戦布告」の文字はどこにもありませんでした。
あくまで、「外交の打ち切り」の内容でした。
つまり、この14本目の電文が時間通りに届けられても、「宣戦布告」とはとられなかったのではないかということです。
なぜ、このような中途半端なことになってしまったのか。
最後通達をすることが宣戦布告にあたる、という説を載せている部分もありますが、それは本筋ではないようです。
「宣戦布告」はそもそもなかったということは、どこで、本文が変わってしまったのか。
どうも、国の中枢部としては、「宣戦布告」を行うべきだと考えられていたようです。
しかし、ワシントンに届けられた電文にはその言葉はありませんでした。
そのあたりについては、謎が残ります。(私が読み落としていたらすみません)
海軍は、最終通達すら不要だと考えていたと聞いたこともありますので、日本特有の「折衷案」だったのかもしれませんし、別の理由があるのかもしれません。
まとめ
とても詳細に調べられた本です。
ただ、登場人物が多く、歴史に詳しくない私には少し難しい本でした。
ハル・ノートが届けられる前のやりとりについてなども載っており、外交を通じて戦争を避けるためにはどのようにしたらいいのか、さまざまな人が関わっていたことがわかります。
もしよろしければ、一読されることをおすすめします。
新しい知見が得られると思います。